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管理栄養士・栄養士の現状と未来像~1) 栄養士制度は、なぜ必要なのか?

1.栄養士の誕生

そもそも、「栄養士」という専門職が必要だと思うだろうか? 実は、現在でも多くの国々には栄養士が存在しないし、存在していたとしても、公的資格を持った専門職として認められている国は少ない。我が国のように「栄養士法」という身分法を持ち、法律により給食施設への配置が義務づけられている国は少数派である。栄養士の未来像を考える前に、我が国においてどのように栄養士が誕生し、発展してきたかを紐解いてみたい。第二次世界大戦時、英国を救った首相ウィンストン・チャーチルは、「過去をより遠くまでかえりみれば、それだけ遠い将来のことを予測することが可能になる」と述べている。

栄養士が、世界で初めて誕生したのは1917年、第一次世界大戦中である。深刻な食料不足に悩んでいたアメリカで、国民の健康と栄養を維持しようと、志ある女性グループが立ち上がり、オハイオ州クリーブランドに集まった。彼女たちは、自分達を「栄養士」と名乗り、アメリカ栄養士会を設立し、このことが栄養士の誕生だと言われている。

日本では、1926年、佐伯矩博士が創設した「栄養専門学校」の卒業生15名が最初の栄養士であり、1945年には、厚生省が「栄養士規則」を制定して国家資格とした。つまり、日本の栄養士は、終戦直前、アメリカの爆撃機B-29の爆撃により、日本全土が焦土化される真っただ中で誕生したのである。お金も、食べ物も、住居も、何もない中で、国民の命と生活を守る使命を、栄養士に課された。

2.栄養士不要論と栄養改善法

社会全体の戦後復興が進み、栄養士の指導の下に国民の栄養状態は改善されて、飢餓や栄養欠乏は減少し始めた。人々はいつしか食べられることのありがたさや栄養を考えて食べることの意義を忘れるようになっていた。栄養学、栄養士の不要論が出始めたのである。その根底には、当時、多くの人々が持っていた「栄養問題は経済が発展すれば解決する」という思いがあった。栄養が必要だったのは、戦争により極度な貧困と食料不足が生じたからであり、もはや戦後は終わり、経済も発展したから栄養は不要と考えたのである。明治維新以降、近代国家を建設する過程で、何度もの戦争を行い貧困、飢餓、さらに栄養欠乏症に悩んできた人々にとっては、当然の帰着だとも言える。食べ物が溢れ、自由に食べれば、栄養過剰症に悩む時代が来るなど想像もできなかったからである。

1951年、地方制度審議会から、栄養士法廃止の議論が起こった。栄養はもはや国策として取り組む課題ではないというのである。日本栄養士会は、貧困層や地方の栄養改善は未だ不十分であるとの理由で、廃止法案の阻止を進める運動を展開した。廃止は阻止できたが、このことをきっかけに「栄養士法」という身分法だけでは、栄養士の社会的位置づけが不安定で、明確な職業として根づかないことに気が付いた。つまり、身分の法的裏付ができる制度が必要だとする議論が起こったのである。

1952年、国民の健康、体力の向上を図る目的で「栄養改善法」が公布、施行された。栄養改善法には、国民栄養調査、栄養相談所、都道府県による専門的栄養指導、栄養指導員制度、集団給食施設の栄養管理、特殊栄養食品、栄養表示等が記された。そしてこの法律では、国民に栄養改善の必要性を指示し、集団給食施設に栄養士の配置が義務づけられた。集団給食施設に、栄養士を配置して、栄養バランスの優れた食事を提供するとともに栄養に関する正しい知識の普及に努めることが明記されたのである。

集団給食施設を活用して、健康な食事の提供と栄養知識の普及・啓発を行い、この業務を「栄養指導」と言い、その業務を担う栄養士の専門性を「栄養の指導」と位置づけた。このような日本の栄養改善の方法は、世界でも珍しく、今でも、誇るべき方法だと思っている。

3.非感染性疾患(生活習慣病)の出現と管理栄養士の誕生

1960年代になると、食料不足による低栄養問題はほぼ解決した。しかし、一方で食事の欧米化の弊害が起こり始め、肥満や成人病と言われた非感染性の慢性疾患(生活習慣病)が増大し始めてきた。栄養欠乏の主たる原因は、食料の不足、偏り、さらに調理方法にあり、農学や家政学での研究、教育が中心になるが、非感染性疾患は個人の習慣や体内の代謝障害に課題があり、その解決策は、医学の研究や教育を発展させることが不可欠になった。医学系大学で、栄養士の上位資格を養成する必要性が叫ばれるようになったのである。

1962年4月の参議院社会労働委員会において栄養審議会から「管理栄養士制度」が提案され、9月には、栄養士法の改正により「管理栄養士制度」が国会で承認された。1962年4月、国立徳島大学医学部に栄養学科が誕生し、1965年3月に文部省令第7号をもって大学設置基準が定められ、管理栄養士制度が正式に誕生することになった。つまり、栄養問題は、戦後の低栄養問題から、豊かさから生まれる過栄養問題に変化して「栄養士・管理栄養士制度」へと発展したのである。

4.再びの危機と「2000年法改正」

1982年、再び大きな事件が起こった。政府は行政簡素化方針の一環として、「栄養士法廃止案」を検討したのである。栄養欠乏症はなくなり、管理栄養士制度を作ったが役割が不明確で、国は、もはや栄養政策に積極的に取り組む必要性はなくなったというのが政府の考えであった。日本栄養士会は、栄養士法廃止阻止運動の先頭に立ち、国民から法案の撤回を求める嘆願書を募り、国会にデモを行った。「過食と食事の偏りにより、国民の栄養問題は多様化し、栄養政策は引き継き、国の重要な政策である」と主張した。国は、我々の主張を理解して、非感染性慢性疾患の予防に積極的に取り組むことを約束して廃案とした。

栄養士廃止法案に反対するこの国民運動により、人々は管理栄養士栄養士がなぜ必要なのかという根本的課題を広く理解することになり、このことが、その後に起こる「2000年法改正」の起爆剤になっていく。

 

中村丁次(なかむら ていじ)

一般財団法人 日本栄養実践科学戦略機構 代表理事理事長

1972年徳島大学医学部卒業。新宿医院、聖マリアンナ医科大学病院で臨床栄養を実践。1978年より東京大学医学部に研究生として在籍し、1985年に博士号を取得。学位論文のテーマは「健常過体重者の摂食行動と身体活動状況に関する研究」。

2003年神奈川県立保健福祉大学教授に就任。栄養学科長、学部長を経て、2011年から20233月まで学長を務め、20234月より神奈川県立保健福祉大学名誉学長。

2008年第15回国際栄養士会議(ICD2008)組織委員長、2022年第8回アジア栄養士会議(ACD2022)組織委員長。

100年にわたる日本の栄養政策の歴史の後半部分に直接関わってきた功績は、「東京栄養サミット2021」の冒頭で行われた岸田首相(当時)のスピーチでも紹介された。国際的にも栄養学の第一人者として広く知られている。著書の『臨床栄養学者中村丁次が紐解くジャパン・ニュートリション』(第一出版)は、英語版と中国語版が相次いで出版され、全世界で読まれている。

2004年~2011年 公益社団法人 日本栄養士会 第八代会長を経て、2018年 公益社団法人 日本栄養士会 第十代会長に就任、現在に至る。

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